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弥生時代
(1)弥生文化
@B.C( )C頃〜A.D( )C頃
A( )から発生し、畿内を経て関東まで及んでいく。
B土器の形式によって、前期・中期・後期の3つに区分される。
(2)人々の生活
@( )の本格的な実施
A金属器の使用 → ( )器(主に祭器)・( )器(主に実用具)など
磨製石器の使用も続く。
B( )土器の使用 → 幾何学文様や無文様のものなど様々。
C( )住居に生活
D低地の集落で生活 → 農耕がはじまったため便利な低地で生活する。
・【中期〜後期】( )集落 → 軍事的性格が強い。畿内・瀬戸内に分布。
・【弥生時代全般】( )集落 → 溝(濠)で周りを囲んだ防衛的な集落。
北九州〜関東に分布。
(3)弥生土器 → 幾何学文様・無文様など形状は様々。
@温度 → 高温で焼かれている。(約 1000 ℃)
A形状 → ( )であるが硬い。
B色 → ( )
C用途・種類 → 壷(貯蔵用)・甕(煮沸用)・( )(水を入れた甕の上にのせて蒸す)
( )(盛りつけ用)
D1884年に東京都文京区本郷弥生町で発見されたためこの名前がつく。
(4)水稲耕作
@田の形状
・縄文晩期〜弥生中期 → ( )・・・低湿地に作る。生産性が低い。
・弥生後期 → ( )・・・灌漑施設の開発により、生産性が向上。
A植え付け・収穫・脱穀
・( ) → 籾を直接田んぼにまく。
・収穫 → ( )で穂首刈。
後に金属器の( )が開発されると( )が行われる。
・脱穀 → 木臼・竪杵で脱穀。
B貯蔵 → ( )倉庫・貯蔵穴
余剰生産物の備蓄が可能になったため、貧富の差・身分の別ができる。
C木製農具
・木鍬・木鋤・・・耕作具 ・( )・・・足が沈まないために履く。
・( )・・・田に肥料を踏み込む ・( )(後に鉄鎌)・・・収穫具
D弥生前期(北九州〜伊勢湾沿岸)・中期(関東〜東北南部)・後期(東北北部)へと伝播。
E水稲耕作の伝播しなかった地域
・北海道 → ( )文化と呼ばれ、主にサケ・マスなどを捕る生活が続く。
縄文土器系の( )土器を使用。
・沖縄 → ( )文化と呼ばれ、主に貝類などを捕る生活が続く。
(5)金属器の伝来
@( ) → 祭器・装飾具として使用
・銅剣・銅鉾・銅戈 → 実用武器として伝来したが、後に扁平で大型化し祭器となる
・平形銅剣 → ( )に分布
・銅鉾・銅戈 → ( )に分布
・銅鐸 → ( )に分布
・銅鏡 → 中国伝来の舶載鏡と日本製の( )の2種類が存在
A( ) → 実用工具・武器に使用
(6)社会
@( )の差・( )の別が生まれる → 水稲耕作によって生産力が高まり余剰
生産物を蓄積可能になったため。
A( )の出現 → 大規模な治水・灌漑などが行われるようになり、共同作業の指導調
整や他集団との交渉を行う有力者が必要になったため。
B小国( )の形成 → いくつかの集団(集落)を従えるようになった有力首長が集団
の連合体を形成
(7)信仰と習俗
@( ) → 埋葬の方法。縄文時代の( )と区別。
A( )墓 → 1つの土器、若しくは土器を2つ合わせて棺にしたもの。
B( )墓 → 小さな支石の上に大石をのせる。九州北部に出現。
C( )墓 → 周りに濠を持ち、土を盛り上げて作る。近畿に出現。
D( )墓 → 板状の石を箱型に組み合わせて棺にしたもの。西日本に多い。
E( )墓 → 中期から西日本に出現。後に古墳に発展したと考えられる。
F( ) → 首長の墓などに多く存在する。遺体とともに埋葬される祭器など。
(8)主な遺跡
@( )遺跡(静岡)・唐古遺跡(奈良) → 水稲耕作の跡、高床倉庫の跡が見られる
A( )遺跡(福岡) → 甕棺・支石墓が多数あり。副葬品も多く発見。
B( )遺跡(奈良) → 大規模な環濠集落跡。多数の弥生土器・木製農具・植物
性食物の遺品が発掘される。
C( )遺跡(佐賀) → 大規模な環濠集落の跡が見られる。
D荒神谷遺跡(島根) → 山の斜面から358本もの鉄剣、その他青銅器も出土。
E垂柳遺跡(青森) → 東北地方まで弥生文化が及んだこと証明する遺跡。
(9)邪馬台国の成立
@( ) → 邪馬台国の女王。
A呪術的政治を行う → シャーマニズム的性格のため( )政治とも呼ばれる。
B( )―( )の身分秩序。
C服装 → 男性は( )・女性は( )。
D卑弥呼の死後に、宗女の( )が女王となる。
(10)中国の情勢
@25年、( )により後漢が建国(都・洛陽) → 220年滅亡
A後漢滅亡後( )・呉・蜀の三国時代突入 → 280年に魏から起こった晋が統一。
(11)外交 → 中国とは定期的に外交を行う
@( )外交 → 中国に貢物をしその何倍もの見返りを受け取る外交。
A( )体制 → 朝貢外交の体制の仕組み。
B中国との外交関係は、中国側の史料によってわかる。
(12)『 』( )
@作者 → ( )
A成立 → A.D1C頃
B内容 → B.C1C頃の日本について
C本文 → 「夫れ楽浪海中に倭人有り。分れて百余国となる。歳時を以って来り献見すと云う。」
D要約 → 倭人の社会は100余りの小国に分立し、それらの国は、定期的に( )郡を
経由して、漢の都( )に使いを派遣していた。
※楽郎郡・・・武帝は朝鮮の植民地として、他に( )・( )・( )の4
郡を置いた。
(13)『 』( )
@作者 → ( )
A成立 → A.D5C頃
B内容 → A.D1C頃の日本について。
C本文 → 「建武中元二年、倭の奴国奉貢朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。
光武賜うに印綬を以ってす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献
じ、請見を願う。」
D要約 → ・( )年(建武中元二年)、倭の( )国王が後漢の都洛陽へ朝貢
・当時の皇帝( )により「 」の( )が贈られる
※金印は1784年( )県( )で発見される。
・( )年(安帝の永初元年)、倭の国王( )が奴隷160人を献上
(14)『 』( )
@作者 → ( )
A成立 → A.D3C頃
B内容 → ( )成立頃の日本について
C本文 → 「倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑を為す。旧百余国、漢の時
朝見する者在り。今、使訳通ずる所三十国。郡より倭に至るには海岸にしたがひて
水行し・・・・・・。其の国、本亦男子をもって王と為し、住まるところ七・八十年。倭
国乱れ。相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼
という。鬼道を事とし、能く衆を惑わす。年巳に長大なるも、夫壻なく、男弟あり、
たすけて国を治む。・・・・・・景初二年六月、倭の女王、大夫難升米らを遣わし、郡に
詣り・・・・・・。其の年十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く「親魏倭王卑弥呼に制
詔す。」帯方の太守劉夏、使を遣わして汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝
献ずる所の男生口四人。・・・・・・卑弥呼もって死す。大いに塚を作る。径百余歩、徇
葬する者奴婢百余人。更に男王を立てしも国中服せず。・・・・・・復た、卑弥呼の宗女
壱与、年十三なるを立てて王となし国中遂に定まる。」
D要約 → ・倭国の大乱は、邪馬台国の女王( )を立てることで治まる。
・( )年(景初三年)、大夫( )らを魏の都洛陽に使わす。
・魏の皇帝より、「 」の称号と金印紫綬・銅鏡などを受け取る。
・後も、( )郡を通じて遣使。
・卑弥呼の死後は、男子を王に立てるが治まらず、一族の女性( )を13
歳で王に立てることで治まる。
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